アーキペラゴを探して

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自由に生命が泳ぐ柵へ / 『若者よ、マルクスを読もう』

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 倉敷国際ホテルのロビー吹き抜けに、棟方志功の大きな板画が掛けられている。この板画の横のチェアで『若者よ、マルクスを読もう  20歳代の模索と情熱 』(以後、若マル)を読んだ。前作から続いて、内田樹氏と石川康弘氏によるマルクスの頭脳への憧れが綴られている。

 Ⅰ巻は飛ばし読み、Ⅱ巻 は巻頭の対談を読んだだけの理解ではあるが、このシリーズで参考になったポイントを要約してみた。

 

①資本家が富を独占するために、プロレタリアの行動は全て誘導されている。

②誘導する資本家と誘導されるプロレタリア。この関係が続くことで格差の構造は今後も進展する。

③プロレタリアはそうとは知らずに、資本家により檻の中に誘導されているのであり、少なくとも、この檻の存在に気づきましょう。

④この見えない檻を見抜く力は、マルクスしか持っていないので、その考え方や見方を学びましょう。頭が良くなります。

⑤最終的には連帯*1して、真の人間開放を目指しましょう。そのためにマルクスを読みなさい!

 

現在「ゆるい就職」が旬のトピックスとなっているようである。元記事は、若マルを読む前に読んでいた。素晴らしい、やっぱりそうだよ、働いている限り人間は本来の自由な姿を見失っているよと単純に思ってしまった。

若マルを読んだ後で考えると、ゆるい就職は、資本家にとって都合の良い仕組みだということがなんとなく分かる。若マルを読んで、頭が良くなったかは分からないが、疑い深くなったことは事実である。この旬のトピックスの関連ブログを読むと、この資本家に都合の良い構造を見抜いている記事が多い。ウィンウィンの関係を装いたい資本家としては残念なところだろう。

あの記事を読んで、僕のように、いいね! と思った人は『若者よ、マルクスを読もう』シリーズを読んだ方がいいかも知れない 。

 

この本で語られるマルクスは、絵ではなく、額縁を見ろという。資本家は額縁に気づかせないために、絵を色々と変える。ポイントは、資本家があの手この手で次々と用意する檻や額縁に気づけるかどうかである。

社会という檻、会社という檻、消費増税という檻、非正規雇用という檻、老後破産という檻、地球温暖化という檻、ほんとうの私という檻、ノマドという檻、ありのままでという檻、ソーシャルという檻…

チェア横にある板画のタイトルは、『大世界の柵〔坤〕―人類より神々へ―』

この作品は、ベートーベンの第九やピカソのゲルニカの影響を受けていると言われている。なるほど。この板画は、大世界の柵の中で自由に泳ぐ生命の姿を描いている。しかし、この板画のタイトルにある柵はどういう意味だろう。檻は閉じ込められて出れないが、柵は飛び越えたら出ていけるということかな。

柵ぐらいなら、割と快適に生きることができるのかも知れない。

 

では、檻を柵に変える戦略はどのように考えたらいいだろうか?
同じ内田樹氏の『疲れすぎて眠れぬ夜のために 』をまだ読んでいるのだが、その中に「ディセンシー(礼儀正しさ) 」という戦略が書かれている。

 

ぼくが興味を持つのは、こういうカフカ的な不条理に巻き込まれたときに主人公がとりあえず採用する最初の「ディフェンス」戦略が「ディセンシー(礼儀正しさ)」だということです。

 

このディセンシーから派生する諸々の行動が、ディフェンスだけでなく、戦略的にも有効ではないかと思う。このディセンシーからは、殴り合いではなく、こちら側に有利な話合いという礼儀正しい手段*2が浮上する。

しかし、現代の情報社会は、誰が資本家の放った手先ゾンビ*3かも分からない状態となっている。もちろん、本人にもその自覚はないだろう。これは、厄介な問題である。

 

しかし、望みはある。ネットには、話合いに必要な代案*4を錬金術する材料が満ち溢れ、マーケットには若マルのような本も流通している。

「この代案を飲んで頂いて、せめて、我々を閉じ込める檻を、柵ぐらいにしてくれませんかね」と、資本家や政治家に、礼節を持って提言するスーパースターがいずれ出現すると思う。(それがアコガレノヒトだ)

 

今週のお題「憧れの人」

*1:資本家は我々の消費行動をMAXにするために、檻への誘導と同時に、購買者数を増やすために、連帯すべき者同士の分断を絶えず仕掛けている。シェアなんてとんでもない話である。これは悪意からではなく、釣りキチ三平君が毛ばりを使う理由を聞かれて、オラ、もっと魚をたくさん釣りてぇからだと答えたように、もっともっと売りまくりたい、金を儲けまくりたいという資本家の本能に基づいているからである。

*2:資本家の本能は、際限のない欲望である。欲望は満たされることのない性質を持ち、プロレタリアが破滅するまで格差は進むだろう。社会を改善するのは、それぞれの義務と考えるが、これまで生きて来た実感からすると、人の欲から生まれたこのモンスターには、自分の周辺の手先ゾンビにですら、正直、歯が立ちそうにない。だから、ディセンシー(礼儀正しさ)が戦術として有効なのである。責任を放棄するようだが、老兵にできるのは、世界の再生へのDNAを探し出し、若者に細々と地下水脈で伝えることである。若マルシリーズには、人間解放を成就する者達へのメッセージが込められている。

*3:マルクスは識者の考えであっても、既に支配階級の思想により誘導されていると指摘する。「支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である。すなわち、社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である/彼らは・・・諸思想の生産者としても支配し、彼らの時代の諸思想の生産と分配を規制する・・・したがって、彼らの諸思想はその時代の支配的諸思想なのだ」(マルクス『ドイツイデオロギー』)

*4:金の卵の寓話のように、雌鳥が死んでしまったのは、雌鶏を殺そうと思ったからではなく、お腹に金が入っていると思ったからである。雌鳥が死んでから目を覚まされても遅いのである。こうした理屈をいくら言っても、資本家や政治家の目が覚めることは絶対にない。資本家の目を覚ますためには、クレバーでトリッキーな代案、妙案、珍案、トンデモ案が必要となる。